終戦の日に思う事


あれから65年だそうだ。

もちろん49歳の私は戦争も終戦の日も経験していない。
しかし、考えてみたら終戦の年は私の誕生のたった16年前の出来事。
年齢を重ねると16年なんて言うのは「あっ」という間だということを知る。

私の父は青春のまっただ中に出兵し、最終的にはシベリアに抑留され地獄を見て来た。
日本兵の上官にされた仕打ち、ロシア兵にされた仕打ち、想像を絶する寒さと劣悪な環境の中死んで行った仲間たちの事。
父は戦争がいかに人の心理を狂わせるかについて何度も聞かせてくれた。

しかし、何度話を聞かせてもらっても幸せの中に生きる私の想像はたかが知れている。
「大変だったんだね」などと言っても言葉だけが空回りする。
父と私の瞼(まぶた)の裏に見る光景は全く違う。

私の想像は耳が張り裂ける様な爆音も、火薬や血の臭いも、痛みも、「この現実から逃れられない」と言う絶望感もない。
それまで学習した事を総動員し想像するだけだ。
体験したものと、想像するのとは絶対に埋められない隔たりが有る。

私たちの義務はその隔たりを承知の上で戦争体験者から聞いた事を子供たちに伝えること、だと思う。
実際は現実の戦争の千分の一も解らないだろう、でも聞くこと伝えることをしなければ戦争の中を生き抜いて来た人たちや、亡くなって行った人たちの苦しみは無かった事になってしまう。

数億分の一でも数兆分の一でもいい、私たちが伝えて行くことがあの戦争で苦しんだ人たちに出来る唯一の義務だと思う。




終戦記念日近くになるとメディアは「悲惨な戦争を、二度と起こしてはいけない」と言った特集を組む。
しかし、最近は夜中のドキュメンタリー番組を除いては戦死者(兵士、民間人)の映像などを流さなくなった。
刺激が強すぎるから?子供たちへの配慮?
もしそうだとしたら何かおかしくないだろうか?
私は子供の頃、そう言った映像を目の当たりにして本当に戦争は嫌だと思った。

戦争の悲惨さは雨のように降る注ぐ爆弾の下に、火炎放射器の火と油の塊の先に、手榴弾の炸裂するその場所に自分たちと同じ人間がいる事だ。
遺体や負傷した人間を映す事を避けてどうやって子供たちに戦争の悲惨さを伝える事が出来るのだろうか。

戦争の中にいる人たちは女も、子供も容赦なく目の前で人々や家族が肉片になるところを見なくてはならなかった。目を背けたくなる地獄絵図こそが戦争の本質なのだ。

国、メディア、そして私たちが「二度と戦争を繰り返してはならない」そう心から思っているなら、終戦記念日だけでなくもっと教育の現場や社会の中で戦争について語る環境を作るべきだ。

「反戦の集い」「○○の会」などという大層な事を考える必要ない。
自分たちが親や祖父母から聞いた話を子供に伝えるだけで良い。
戦争の中を生きた人々の瞼に焼き付いた光景を想像し、伝える努力をしなければ、必ず同じ過ちは繰り返される。

こういう悲惨な姿の建物を残す事がいかに大切かを痛感する、この弾痕からはこの日機銃掃射で肉片となった人々の叫びが聞こえる。





* 東大和市南公園にある旧日立航空機立川変電所
1945年(昭和20年)3回に渡る戦闘機の爆撃により無数の無数の弾痕が残る。
110名余りの死者、多くの負傷者を出した。
一部の弾痕は分厚いコンクリートの壁を貫通している。

1993年都の文化財に。1995年に東大和市の史跡に指定された。